震災発生後、2日目。
伯父と伯母と従兄弟は、みんな神戸に住んでいるので安否がとても気になります。
でも、電話は繋がる事も少ない上に、避難しているのか繋がっても電話には出ない。
(この頃は皆が携帯持ってる時代じゃないですから。ショルダーバッグみたいなデカイ携帯は存在してたかも。)
そこで自転車で様子を見に行く事にしました。
私と父が捜索隊、母と妹は引き続き家の中の片付け。
幹線道路は人人人、車車車、で大渋滞。
仕方なく南に下って国道43号線へ行ってみる。
うおぉぉぉぉぉ!!!高速道路倒れてる!!
もう、昨日から非日常すぎて何がなんだか、、、
まだ交通規制はされてなかったので、倒壊してる道路の横を自転車で走る。
こんな所誰も走らないから、すいてるけど、超危険。
後から知った話によると、警察は人命救助を優先した為、道路の交通規制は後回しにしたんだそうです。
従兄弟夫婦が住んでいたマンションは、とある阪神電車の駅のすぐ横。
・・・電車が突っ込んでて、マンションは原型をとどめていない。
伯母夫婦が住んでいたあたりは、瓦礫の山で道も判別不能。
どこが家だったのかさえわからない状態。
とりあえず、避難先になりそうな学校とかに行って探してみる。
いない、、、
避難所のそばに伯父のものらしき車を発見!!
置き手紙をワイパーに挟んで、家に帰る。
帰ったら、母が、
「おばちゃんから電話あったよ~~~」
え?でも避難所探してもいなかったよ。どこの避難所にいるの?
「有馬温泉だって」
はぁ~~~!?
「もう、家では住めなからって温泉に避難したんだって。
だから、うちに来るように言ったよ。」
じゃあ、あの置き手紙は、、、全然違う人に置いてきたんだ(汗)
さてさて、うちの家で、家族4人、伯父、伯母、従兄弟二人の合計8人で避難生活を送る事になりました。
2階は怖いので、全員1階で生活。まるで合宿のよう。
電気はたまに停電するけど一応来てる。ガスは使えない。水道も出ない。
洗いもの少なくて、電気を使うホットプレートで料理できる物と言えば、、、
そう!焼肉。
しかも、もしかしたら明日から食べられないかもしれないと言う恐怖もあり、
食べれるうちに食べておこう!!と食べる食べる。
同じ震度7クラスの余震が来ると言われていたので、それがとても恐ろしかったんです。
でも幸い来なかったんですけどね。
それから毎日忙しかったですよ。
近くの池にトイレ用の水の水汲み。
給水車が来たら、桶やらポットやら持って並ぶ。
だって、断水になるなんて思ってなかったから、給水用の便利なバケツなんて無いんですよ。
とにかく、家中の割れなかった水を入れられる物を持って並ぶ。
こんな時に、並ぶのキライなんて言ってられません。
でも、私の並び嫌いはここからひどくなったかも。
うちから道路はさんで向こう側に、公衆電話が一つありました。
いつも、いつも、長蛇の列です。
友達が並びに来たので、ついでにうちに寄ってくれました。
でも、あんたの家の近くにも公衆電話あるでしょ?
「何言ってんねん!ここの公衆電話は繋がるってめちゃ評判やで」
評判て、、、ラーメン屋かいな。
そんなジンクスも飛び交って、うちの家の回りは賑やかでした。
そうそう、うちの家の前にスーパーの第二駐車場があって広いスペースがありました。
そこが何日かしたら自衛隊のキャンプ地になって、毎朝ラジオ体操をしてるので、
私たちも、庭で一緒に体操してました!
あの時ほど、警察や自衛隊が傍にいて嬉しいと感じた事は無いですワ。
2週間ほど経った頃だと思いますが、四国行きのフェリーが再開したので、
父の住んでいる所へ、買い出しと休養へ。
おぉ!水道ひねったら水が出る!!
と感動したりして、久しぶりのお風呂♪
2~3日ゆっくりして、また戻る!!
帰りに四国のお店で、必要な物を買っていると、みなさん親切。
「がんばって下さいね!」
ありがとう!!
「がんばって」って言わない方が良いって話も聞きますが、私はかなり嬉しかったですよ。
おう!がんばるぜ!!と思って芦屋へ帰宅。
相変わらずガスと水道はダメだけど、電気は安定してる。
まず最初に復旧したのがJR。
一番西は芦屋駅でした。本来の駅よりかなり東側に仮ホームを作ってました。
全国から応援がやって来てくれて、うちの町のガス復旧作業は、
『北海道ガス』って書いてる帯広ナンバーのトラックが来てくれてました。
遠くからありがとう!!!
それでもガスの復旧はなかなか大変。
カセットコンロじゃ、火力も弱いしすぐに無くなるので、
父がプロパンガスのボンベを調達してきた!
コンロもそれ用のを借りてきて、超快適。
水道も復旧し、それまで30分待ちだった銭湯も徐々に待ち時間が短くなった。
ガスが復旧したのは4月頃だったかな?
それで、ライフラインはすべて復旧。
しかし、、、地震発生当初は、おぼろげに思ってました。
もう二度と、今までのようなフツーの生活はできないだろう
って。
ところが、3ヶ月程度でライフラインは復旧。
驚きました。そんなに早いんか!!!
ヒトってすごい。
こんな風に書けるのは、私の家族や親戚が全員無事だったからだと思います。
同級生や、先輩が亡くなりました。
そのご両親は、あまり多くを語りません。
また、友達や後輩は家族を亡くしました。
彼らも、震災の話はしません。
うちは、割れ物は壊れたけど他の物は大丈夫でした。
2日目に近くで火事が起こったけど、川の向こうだったのでなんとか焼けずにすみました。
友達の家は震災直後に火災が発生したため、何も持たずに逃げたので、
昔の写真も卒業アルバムも、思い出の品も全部焼けてしまいました。
私は、たまたま運がよくて生き延びられた。
本当にたまたま。
もしあの時こっちに居たら、もしあの時ああしてたら、
ここには居なかったかもしれません。
そう思うと、絶対悔いの無いように生きたい!と思います。
これから、震災15年目に入ります。