1月17日②

震災発生後、2日目。

伯父と伯母と従兄弟は、みんな神戸に住んでいるので安否がとても気になります。

でも、電話は繋がる事も少ない上に、避難しているのか繋がっても電話には出ない。
(この頃は皆が携帯持ってる時代じゃないですから。ショルダーバッグみたいなデカイ携帯は存在してたかも。)

そこで自転車で様子を見に行く事にしました。

私と父が捜索隊、母と妹は引き続き家の中の片付け。

幹線道路は人人人、車車車、で大渋滞。
仕方なく南に下って国道43号線へ行ってみる。

  うおぉぉぉぉぉ!!!高速道路倒れてる!!

もう、昨日から非日常すぎて何がなんだか、、、

まだ交通規制はされてなかったので、倒壊してる道路の横を自転車で走る。
こんな所誰も走らないから、すいてるけど、超危険。

後から知った話によると、警察は人命救助を優先した為、道路の交通規制は後回しにしたんだそうです。

従兄弟夫婦が住んでいたマンションは、とある阪神電車の駅のすぐ横。

・・・電車が突っ込んでて、マンションは原型をとどめていない。

伯母夫婦が住んでいたあたりは、瓦礫の山で道も判別不能。
どこが家だったのかさえわからない状態。

とりあえず、避難先になりそうな学校とかに行って探してみる。

   いない、、、

避難所のそばに伯父のものらしき車を発見!!
置き手紙をワイパーに挟んで、家に帰る。

帰ったら、母が、

   「おばちゃんから電話あったよ~~~」

    え?でも避難所探してもいなかったよ。どこの避難所にいるの?

   「有馬温泉だって」

    はぁ~~~!?

   「もう、家では住めなからって温泉に避難したんだって。
    だから、うちに来るように言ったよ。」

    じゃあ、あの置き手紙は、、、全然違う人に置いてきたんだ(汗)

さてさて、うちの家で、家族4人、伯父、伯母、従兄弟二人の合計8人で避難生活を送る事になりました。

2階は怖いので、全員1階で生活。まるで合宿のよう。

電気はたまに停電するけど一応来てる。ガスは使えない。水道も出ない。

洗いもの少なくて、電気を使うホットプレートで料理できる物と言えば、、、

  そう!焼肉。

しかも、もしかしたら明日から食べられないかもしれないと言う恐怖もあり、
食べれるうちに食べておこう!!と食べる食べる。

同じ震度7クラスの余震が来ると言われていたので、それがとても恐ろしかったんです。

でも幸い来なかったんですけどね。

それから毎日忙しかったですよ。

近くの池にトイレ用の水の水汲み。
給水車が来たら、桶やらポットやら持って並ぶ。
だって、断水になるなんて思ってなかったから、給水用の便利なバケツなんて無いんですよ。
とにかく、家中の割れなかった水を入れられる物を持って並ぶ。

こんな時に、並ぶのキライなんて言ってられません。
でも、私の並び嫌いはここからひどくなったかも。

うちから道路はさんで向こう側に、公衆電話が一つありました。

いつも、いつも、長蛇の列です。

友達が並びに来たので、ついでにうちに寄ってくれました。

   でも、あんたの家の近くにも公衆電話あるでしょ?

   「何言ってんねん!ここの公衆電話は繋がるってめちゃ評判やで」

   評判て、、、ラーメン屋かいな。

そんなジンクスも飛び交って、うちの家の回りは賑やかでした。

そうそう、うちの家の前にスーパーの第二駐車場があって広いスペースがありました。
そこが何日かしたら自衛隊のキャンプ地になって、毎朝ラジオ体操をしてるので、
私たちも、庭で一緒に体操してました!

あの時ほど、警察や自衛隊が傍にいて嬉しいと感じた事は無いですワ。

2週間ほど経った頃だと思いますが、四国行きのフェリーが再開したので、
父の住んでいる所へ、買い出しと休養へ。

   おぉ!水道ひねったら水が出る!!

と感動したりして、久しぶりのお風呂♪

2~3日ゆっくりして、また戻る!!

帰りに四国のお店で、必要な物を買っていると、みなさん親切。

   「がんばって下さいね!」

   ありがとう!!

「がんばって」って言わない方が良いって話も聞きますが、私はかなり嬉しかったですよ。

おう!がんばるぜ!!と思って芦屋へ帰宅。

相変わらずガスと水道はダメだけど、電気は安定してる。

まず最初に復旧したのがJR。
一番西は芦屋駅でした。本来の駅よりかなり東側に仮ホームを作ってました。

全国から応援がやって来てくれて、うちの町のガス復旧作業は、
『北海道ガス』って書いてる帯広ナンバーのトラックが来てくれてました。

   遠くからありがとう!!!

それでもガスの復旧はなかなか大変。

カセットコンロじゃ、火力も弱いしすぐに無くなるので、
父がプロパンガスのボンベを調達してきた!
コンロもそれ用のを借りてきて、超快適。

水道も復旧し、それまで30分待ちだった銭湯も徐々に待ち時間が短くなった。

ガスが復旧したのは4月頃だったかな?

それで、ライフラインはすべて復旧。

しかし、、、地震発生当初は、おぼろげに思ってました。

   もう二度と、今までのようなフツーの生活はできないだろう

って。

ところが、3ヶ月程度でライフラインは復旧。

驚きました。そんなに早いんか!!!

ヒトってすごい。

こんな風に書けるのは、私の家族や親戚が全員無事だったからだと思います。

同級生や、先輩が亡くなりました。
そのご両親は、あまり多くを語りません。

また、友達や後輩は家族を亡くしました。
彼らも、震災の話はしません。

うちは、割れ物は壊れたけど他の物は大丈夫でした。
2日目に近くで火事が起こったけど、川の向こうだったのでなんとか焼けずにすみました。

友達の家は震災直後に火災が発生したため、何も持たずに逃げたので、
昔の写真も卒業アルバムも、思い出の品も全部焼けてしまいました。

私は、たまたま運がよくて生き延びられた。
本当にたまたま。
もしあの時こっちに居たら、もしあの時ああしてたら、
ここには居なかったかもしれません。

そう思うと、絶対悔いの無いように生きたい!と思います。

これから、震災15年目に入ります。

1月17日①

1月17日 午前5時46分

黙祷

今年で14回目になるんですね。

本当に長い間揺れてました。
地震だとは思いもしませんでしたよ。

  ポルターガイスト?
  とうとう呪われた!

って。

映画とかで見るポルターガイストみたいな状態でした。
揺れが収まってから、色んなものが落ちてきたベットから起き上がり、
電気がつかないので暗闇を見つめる。。。

静かでした。本当に静かでした。
あんなに音が無い状態は、それまでにも、また今までにも無かったです。

暗闇に目が慣れてきたら、、、

  え!?
  アップライトピアノが、、、倒れてる、、、

まだ地震だとは思わない私。
ここは、通常の世界ではないな、、、どこか闇の世界へ連れて行かれたのか、、、

当時は、父が仕事で四国にいて、
1階に私、2階に母の寝室、妹の部屋がありました。

母が懐中電灯で照らしながら台所の方へ行った様子

  「ひゃ~~~!!!」

冷蔵庫のものは飛び出し、倒れていて、
食器棚もひっくりかえり、家中の壊れられるもの全部壊れてる、、、

ここで、さすがに呪いではないと気付く。(遅っ)

でも、まだ地震とは思えない。
関西は地震が少なく、私の記憶では震度2以上は体験した事なかったから。

  近くに爆弾が落ちたのか?

  とりあえず部屋から出よう、、、

家が傾いてるみたいで、ドアが開かない!!
窓も開かない!!

部屋の外から、母と妹にドアをガンガン押してもらい、
15センチくらいの隙間ができ、そこからニュ~っと出た。

  火事場の馬鹿力ってこう言うのにも使えるのかな?

  とりあえず外に出よう。
  あ!仏壇の位牌だけでも持って、、、

もちろん仏壇も倒れてましたが、祖父と祖母の位牌が
仏間の入り口に飛んできてて苦も無く拾い上げられる。

まだ、外は真っ暗。
停電で街灯も消えてるから、本当に真っ暗。

となりのアパートのおじいさんが二階の窓から外へ逃げようとしているのを、
懐中電灯で照らして手伝ったりしているうちに、夜が明けてきた、、、

その時の格好は、パジャマに素足に運動靴。
今と同じ季節だから寒いに決まってます。
でも、まったく寒いとも思わなかった。

とにかく放心状態。でも大変な事が起きてる事は間違いない。
この先、生きていられるのか?
何かできることはしなきゃ。
放心してる場合じゃない!!

外が明るくなってきたので、とりあえず家の中へ。

  あ!!電気がついた!
  良かった良かった。

  ガスと水道はダメだ、、、
  こんな事ならお風呂のお湯抜くんじゃなかった、、、

  日本中こうなのかな?
  とりあえず、父に電話しよう。

  う~~~ん繋がらない。

  こんな時に何ですが、お腹空かない?
  そうね、腹が減っては戦はできぬ、よね。

電気は使えるから、お正月のお餅をトースターで焼く。

あ、もちろん家の中は靴のまま。
ガラスをジャリジャリ踏みながら家の中を歩く、、、

  お持ち入れてるタッパーはガラスじゃなくて良かったよ。
  プラスチック製品は無事~。

なんて朝食を取ってると、余震が!!

  キャー!!

慌てて飛び出す。
でも震度2~3くらい。

  やれやれ、、、
  あれ!?
  今の地震で、家の傾きが戻ったみたい。
  私の部屋の扉が開くよ♪

でも、、、
  また停電になった!!

停電になったら、電話回線が生きてても電話機が使えない、、、

  ふっふっふ
  私が高校生の時に使っていた電話機まだ取ってあるのだよ。

留守電機能も何も付いてないから電気が要らないのだ!

しかも奥底にしまってあったのに、めっちゃ飛び出してきてるし。

  ツー

やった~~~繋がった!!!

再度、父に電話してみる。
おっ!!繋がった!

  「もしもし!四国は大丈夫?」

  「こっちは何とも無い。それよりニュース速報で見たら神戸は震度5なんだって?」

発生当初は、速報で震度5と出たらしい。実際は震度7。
が、当の私たちは停電してたからテレビは見られない、、、

  「これが震度5なんだ。でもね、家の中メチャクチャで食べるもの無いんよ」

  「わかった、これから食材買い込んで、そっちへ帰る」

  四国は大丈夫なのか。よかったよかった。
  これが本当に地震なら震源地はどこだ?
  もっとひどい地域があるんだろう。

自分たちがいる所が最もひどい地域の一部だとは、この時は考えもしませんでした。

  さて、、、

  何から始める?片付けるって言っても、、、

とりあえず余震で2階が落ちてくる事を想定し、
上に2階の無い1階部分を片付けて、今日寝られる所を確保しようという事になりました。

母が寝ていた寝室へ行ってみると、、、
タンスが吹っ飛んでる、、、

  よく生きてられたよね。打ち所悪かったら骨折してるよ。よかった、よかった。

片付けは思うようにはかどらず途方に暮れてた夕方5時ごろ、父が帰宅!!!

  わ~~~~!!!おかえり~~~~!!!!

当時はまだ明石海峡大橋が無く通常ならフェリーを使うのが早いのですが、もちろん運休。
そんな訳で、瀬戸大橋を使って岡山経由で芦屋まで帰ってきたのですが、どんどん道路がひどくなる、、、

高速道路が倒壊している映像を見たことある方、多いと思います。

あれ、うちの家から南へ直進した辺りで起きた事ですから!!

そんなのを見た父は仰天!

  これは、もうアカンかもしれん、、、

でも、大はしゃぎで車から食材を運び出す私たちを見て一安心。

  さてと、この食材お隣にも持って行こうよ。

  そうね、そうね。

よく、ドラマやらで災害で物が無い時に皆で分け合う美談あるじゃないですか?
あれってホントにありますよ。

普段なら強欲なこの私が、ご近所に配り歩いてたんですから。
なんでしょう、、、連帯感?そんなものがありましたね。

17日の夜は、余震が多くて眠れません。
昼過ぎに電気はまた戻ったので、全員でコタツに靴を履いたまま、
上着を脇において、いつでも外に出られる状態で仮眠していました。

私たちは、この後生きていられるんだろうか?
と考えながら、、、

1月17日②へつづく