1月17日5時46分
あれから20年経ちます。
長いようで、早いようで、、、
家のベランダで黙?する時に見えた月
当時は、電気もつかずに真っ暗で、何が起きたのかわからないまま、
上着を着て、母と妹と外へ出てみました。
父は当時から単身赴任でしたので、家には三人。
その時、私たちが外に持って出たのは、、、
位牌
仏壇も倒れていましたが、位牌だけ仏間から飛び出していたので。
今でこそ、地震の備えなどがクローズアップされていますが、
当時は関西では地震がめずらしく、関西には地震が起きないなんて言われてたくらい。
皆さんは、真似しないで下さい(笑)。
とりあえず外に出る時は、懐中電灯と軍手。
すぐに取り出せますか?
家屋に倒壊の恐れのある場合は、水や缶詰やラジオなどを持って速やかに非難!
位牌を持った私たち、となりのアパートの2階の人を救助するのを手伝ったりしてたのですが、
真っ暗で恐ろしく静寂だったのを覚えています。
一瞬電気が付いたので、家の中を見に戻ると、壊れられるものは、全部壊れてる状態でした。
冷蔵庫も、食器棚も倒れて、私の部屋のアップライトピアノも倒れていました。
でも、うちは半壊だったので、被害は少ない方です。
通りを挟んだ向こうは全壊した家屋が多かった。
その日のお昼に、奇跡的に1台だけ動いたフェリーに乗って、父が車いっぱいに食料を積んで帰って来たのですが、
甲子園浜からうちまで、4時間近くかかったそうです。
あ、通常なら30分もかかりません。
阪神高速が倒壊していたので、国道43号線は通れないから、抜け道通ったら家が倒れててバックして戻って、、、の繰り返しだったとか。
その時は携帯電話が無かったですもんね。
夕方、父の車が現れた時は、嬉しくて飛び跳ねました~。
その夜は火事が多かったです。
すぐ傍で火災が起きていて、いつうちまで来るかと不安でしたが、幸い無事でした。
死と隣り合わせの恐怖でした。
うちの家族も、神戸に住んでる親戚もおかげ様で皆無事でした。
でも、友人や知人は数人亡くなりました。
これが、私でも何の不思議はないんですよね。
本当にたまたま偶然『生き延びれた』という感じでした。
その時は、二度と普通の生活ができないのでは無いかと思っていました。
が、電気はすぐに復旧し、JRも駅を移設して運転再開、水道もガスも3ヶ月ほどで元に戻りました。
行政ってスゴイな~と感心したものです。(その時は・笑)
それまで、時間が無い・お金が無い、と言って色んな事諦めていたんですが、
せっかく生き延びれたので、やってみようと思うようになりました。
当時は、時給800円の事務のパートしていてビンボーだったのですが、スキルを磨いて時給Up、
時間が無いから、朝5時に起きて歌の練習したりしました。
バレエもボードもゴルフも、やってみたいスポーツはやります!
スキルUpのために始めたパソコンですが、実は好きみたい(笑)。
これからは、C原語も使えるようになりたいな~とたくらみ中。
この日が来ると、「せっかく生きてるんだから!」と強く思うのです。
最後になりましたが、亡くなられた6434人の方々のご冥福をお祈りします。
震災21年目がスタートします。