自転車置き場から目指す
世界遺産 石見銀山遺跡 龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)
まで300メートルほど
てくてく
あ!蝸牛!
ここが入り口です。
一方通行です。
中はヒンヤリしています。
出口
ユネスコ世界遺産に登録されたのは、2007年7月だそうですよ。
こちらは「清水谷精錬所跡」
1886年(明治19)大阪の藤田組(現・DOWAホールディングス株式会社)は20万円(現在の約20億円)の投資を行い、近代的な採掘設備と製錬方法を導入し新しい製錬所が開設。
しかし、それまで350年余りにわたって採掘されてきた石見銀山の銀鉱床はすでに枯渇しており、一年半の操業の後、閉鎖。
掘り過ぎたんだね~
でも、現在も会社が存続しているのはスゴイ!
オットは登って行ってみました。
どこに居るでしょう?ウォーリーを探せ状態(笑)
自転車を返して、お昼を食べに。
良い町です~
お蕎麦
世界遺産の町なのに、普通のお値段で観光地料金ではない!
しかも美味しい!!
ご飯を食べていると、窓の外にこんなミュージアムが
気になったので行ってみたけど、平日なのでお休みでした~
調べてみたら、こんな方
井戸平左衛門という江戸時代のお代官。
60 歳になった1731 年に大森代官に任命されます。
大森地区の農民は大変貧しく、飢え死に寸前だったため、
幕府に願い出て、薩摩の国からカライモの種を取りよせます。
が暖かい地方の作物を、寒い地域で育てるのは難しかったようです。
そして、1732 年に享保の大飢饉が襲います。
その時、平左衛門は、幕府に納める年貢米を農民に分け与え、
その年の年貢を一切取り立てない決意をしたのです。
享保の大飢饉にあって、この地域では餓死する者がいなかったそうです。
1733年、平左衛門は幕府より大森代官の職をとかれ謹慎を命じられます。
平左衛門は幕府の正式な処分が下る前に、自らの責任をとって切腹し、62歳の生涯を終えました。
薩摩から取りよせたカライモは、殆どダメにしてしまいましたが、ある農民が栽培に成功します。
平左衛門の死後、寒い地方でも育つ栽培法が見つかり、石見を中心にして近隣の村々へと広がっていきます。
領民のために一命をなげうった井戸平左衛門は、現在でもなお「いも代官」として人びとから慕われています。
車で少し離れたところにある、石見銀山世界遺産センターへ
世界遺産を堪能しました!